2015/04/20

『禁断の裸体』4/16昼 1 肉体のなかみの話

作/ネルソン・ロドリゲス
上演台本・演出/三浦大輔 ドラマターグ/広田敦郎
美術/田中敏恵 照明/大島祐夫 音響/中村嘉宏 
衣裳/原まさみ ヘアメイク/佐藤裕子
映像/&fiction 演出助手/西祐子 舞台監督/足立充章

@シアターコクーン

エルクラーノ/内野聖陽 ジェニー/寺島しのぶ
パトリーシオ/池内博之 セルジーニョ/野村周平
おば1/木野花 おば2/池谷のぶえ おば3/宍戸美和公
オデージオ、警察署長/米村亮太朗
召使い、童貞の客、医者/古澤裕介
ニコラウ神父、ボリビア人/榊原 毅

いつも不思議なんだけど。ミュージカルのほうがココがポイント=歌う、になるせいか、それについて(なぜ歌うほどの激情が起こったかについて)語りたくなる。
対して演劇(歌わない)は、各人の視点が如実にその時の自分をぐっと見せる鏡のようになり、語りたいというよりも、自分の中に沸き起こる感情になかなか言葉が追いつかない
帰宅したエルクラーノは、ジェニーが残したカセットテープを聞き始める。

その告白から物語は遡っていく…。
エルクラーノは妻の死後、息子であるセルジーニョと彼を溺愛する3人のおばたちと共に暮らしていた。おばたちはエルクラーノが妻の死を乗り越えられていないことを心配し、彼の弟であるパトリーシオに神父に相談するように勧めるが、彼は神父さまのところへは行かず、馴染みの娼婦、ジェニーのところへ行き、エルクラーノと関係を持つよう持ちかけ、彼女の裸の写真を持って帰る。
弟の言うことに憤怒するエルクラーノだったが、写真を見て心を乱し、泥酔状態でジェニーを訪ね、そこで3日間ともに過ごしてしまうが、彼に心を奪われたジェニーを振り払って、自分の日常へと帰ろうとする。
その後、エルクラーノはジェニーにだんだんと想いを寄せるが、彼女が売春婦であることや、妻の死後に息子のセルジーニョに「二度と女性と関係を持たない」と約束したことで、もう一歩を踏み出すことができない。
パトリーシオはエルクラーノへの憎悪から、ジェニーに「私ともう一度関係を持ちたいのなら結婚して」と言うようにと助言するが―。母親の死によって歪んだ父子関係、売春婦と結婚するための嘘と計画 、そして家族を襲う悲劇とは―。(公式HPより)

感想。とても、面白かった、です。驚いたのは、初演は1965年、50年前!
 
遠い国ブラジルの何かを垣間見たような、日本人が日本語で演じても、遠さを感じさせる文化がめらめらと見えた。にもかかわらず、国にかかわらず、どこにいても同じと良く分かるのは、人間の欲望の行き先と家族の崩壊のさま。遠さと親近感とを同時に見るかのような不思議さがありました。

エルクラーノの家が(過剰に、信仰心を越えて過剰に)厳格なカトリックであることを除けば、今の日本でも平均的家族として同じ風景が描けるだろうというくらいに、時代を感じさせない台本です。読みたいなーと思ったら、全然、全く日本では出版されて無い模様です。南米作品へも光を。

禁断の裸体、というタイトルにあのフライヤーのセクシービジュアルと来て、舞台ではどうなるのかと思ったら、初っ端から脱ぐ脱ぐ脱ぎまくり。暑いし、ブラジル人は隠すよりアピールしてそうだし、そうよね、脱ぐよね。客側にモジモジさせない、見事な脱ぎっぷりでした。しのぶ、偉いぞ。

演技が上手いとか下手とか言う必要もないキャストです。息子役の野村さんも、上手い下手というより、すんごい共演者に頑張って食らいついてました。生の感情を封印したような前半の棒読み風のセリフなども、後半の激流での大ジャンプを見せるための演出でしょうと納得。若者らしい傲慢不遜な態度も良かった。

内野聖陽ウッチー、冒頭はしゃっきりしてて、どんどん崩壊していく男の弱さが素敵(まぁ何でも素敵だ) 

冒頭の白スーツが爽やかで、そして態度が高圧的でちょっと嫌な感じを出すのが絶妙だった。うわぁ、なにこの男、嫌だぁって思うように登場する。召使に高圧的で、オレが帰ってくるのになぜジェニーがいないんだって文句言ってます。
しかし次の回想されていく妻を亡くしたシーンでは、よれよれで猫背で全然カッコよくない(悪い男成分が出ていないからだ)のとの、対比が際立っていた。つまり、こんな嫌~で、かっこいい男になったのは、ジェニーとの出会いがあったからなんだと分かる。見事。

敬虔なカトリック信者で、女性に対しても高圧的にしない、という自己像なのだが、それがジェニーを囲ってからは支配的な態度へ手のひら返しで、まったく笑っちゃうほどひどい。極悪人ではないが、筋が通ってないまるで子供だ。自分のこと好きなんだと思う

禁欲的だったらしい亡き妻とは正反対の、恋にすがるような娼婦ジェニーは、昼は聖女、夜は娼婦でしたか、男のロマンだとか聞いたことがあるが、エルクラーノにはやっと夜の女がやってきたのだった。
自分が抱いたばかりの娼婦に、こんな仕事をしてはいけないとかいい始めるのも、ああダメな男の典型で、笑っちゃう。もちろん本人はいい事を言ってると思ってる。悪いのは酒だから。

そんな自分のちぐはぐさを、取り繕うことには一生懸命だけれど、案外倫理観がすぐに揺らぐ人物でした。息子が快復したとみるや、神の存在を信じますと叫んだり、本人は至極まじめに生きていると思っていそうだが、都合良すぎである。

あと初対面でも3日3晩、おうちに囲ってからも3日3晩・・・体力あるわ。覚えたての青年みたいに励んでいたセックス場面は、色気よりも、滑稽さが。欲と快楽のままにつき進むエルクラーノ、彼にはこの<いま>しかない。でも、性って<いま>のものだな。
でもって、囲ってからの(息子に目撃された)セックスは、楽しいのはエルクラーノでジェニーはイマイチに見えたのが、せつない。ジェニーが受け取ったのは愛情じゃなくて、ストレス発散の運動みたいだった。

つづく。

0 件のコメント:

コメントを投稿